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2022.07.08

特別対談企画(前編)高知ハウス和田氏に聞く、「高知の街に根差し、向き合う不動産会社」の原動力

「不動産管理会社のいまを知る」をテーマに、業界をリードするゲストをお迎えし、貴重なお話をお伺いする連載企画。第14回は、高知県高知市で賃貸管理戸数No.1、地域に根付いて事業を展開する、株式会社高知ハウス 代表取締役社長 和田英知氏にお話を伺いました。
前編では、和田氏が家業の高知ハウス様に参画されるまでの過去や、社長に就任されるまでの苦悩や葛藤、高知ハウス様の顧客目線に立ったお取り組みの裏側にある和田氏のお考えについてお聞きしました。(前編/全2回)

ゲストプロフィール

株式会社高知ハウス 代表取締役社長 和田 英知氏
16歳で東京へ単身上京。高卒認定(旧大検)取得後、帝京大学法学部法律学科を卒業。大和ハウス工業株式会社での営業担当を経て、2000年に父親が創業した株式会社高知ハウスに入社。取締役企画室室長などを歴任。2010年5月より代表取締役社長に就任。管理戸数拡大を目指した上で、従業員満足度を高めることを目的とした組織改革を進め、既存組織が持つポテンシャルの発掘と収益性を高める事業の選択と業務改善から着手。趣味は25年続けているサーフィン。モットーは「凡事徹底」。

目次

単身上京から大検取得を経て、新卒で大和ハウスへ

――まずは、和田社長ご自身についてお伺いさせてください。お父様が創業された高知ハウス様を引き継がれるまでの経緯もお聞かせいただけたら。

高知ハウスに入社したのは約20年前です。それまでは大和ハウスで住宅営業を担当していました。
弊社の採用ページでは私のプロフィールを包み隠さず載せていますが、大和ハウスに就職するまでには、かなりの紆余曲折があって。実は、1つ目の高校を1ヶ月、2つ目の高校を1日で中退し、16歳で東京に単身上京してからは日雇い労働の生活を送っていました。いろいろな職種を転々としていましたが、脳裏に焼きついていたのは、幼少期から見ていた銀行員の父の姿です。父のようにスーツを着てネクタイを締めて働くというイメージがどうしてもあって、そうした仕事に就くにはどうすればよいか、20歳を目前に自問自答しました。そのときに大学入学資格検定(現高卒認定)の存在を知って、マンモス予備校の門戸を叩いたものの、偏差値が低すぎて入塾試験に不合格。悔しくて、そこから他の予備校の大検コースを探して2年間猛勉強した結果、大学検定を取得し、同じ年に大学に入学して、4年間で無事に卒業できました。

就職活動で大和ハウスを受けたのは、相談した姉から「商業施設のプロデュースもしているし、夢のある仕事だよ」と教えてもらったことがきっかけです。姉は日系の金融グループで働いており、大和ハウスは取引先だったんです。自分でも調べてみると、その年の新卒採用は1,000人。「これは入れるかもしれない」と大和ハウスに直接電話をかけ、面接までたどり着きました。

面接では、当時京都の舞妓さんをテーマにしていた映画がヒットしていたこともあって、「御社の京都支店で高い営業成績を出して、舞妓さんと結婚します」みたいなことをひたすら語っていましたね(笑)。そんな型破りな面接でしたが、印象を残せたのか、採用してもらうことができました。大学入学試験検定取得前は大企業の正社員として採用されるなんて考えられないことだったので、「働けるだけでラッキー」という真摯な気持ちで必死に仕事に取り組んだ結果、1年目で支店のトップセールスを打ち出し、役員から表彰を受けました。この頃はとにかく営業が楽しかったですね。

家業を継ぐ覚悟を支えたのは、最も尊敬できる上司は父だという実感

――なるほど。お父様の事業を意識されて不動産業界に入られたわけではなかったのですね。

父が高知ハウスを創業したのは、私が大和ハウスに入社した年で、後継ぎについてはまったく視野に入れていませんでした。父自身も子供には本人がやりたいことをやらせるタイプでしたし、継がせることは頭になかったと思います。そんな父が変わったのは、高知ハウスが4年目を迎えた頃。父の努力によって管理戸数も増え、徐々に事業として形になってきたことで、父なりに責任も芽生えたのでしょう。会社の存続の一つのあり方として事業承継を考えるようになり、父が60歳のときに高知ハウスに入ってほしいと告げられました。私が大和ハウスに勤めて4 年目の28歳のときです。

高校も中退し、親にありとあらゆる迷惑や苦労をかけていた私は、親戚からも忌み嫌われていました。単身上京した理由も高知にいづらくなったからです。そんな過去もあって、親や地域に恩返しをしようという想いで高知ハウスに入社しました。このときに幸運だったのは、これまでの仕事人生において、最も尊敬できる上司は父だと心から実感できたことです。この気づきによって高知ハウスを継ぐ意思が固まりました。

――とはいえ、新卒で入社した会社で一からご自身の居場所をつくり始めていた矢先のことですよね。お父様の会社に入社して家業を継ぐことへの葛藤はなかったのでしょうか。

もちろん葛藤はありました。二代目と言っても、父親が脱サラして創業したばかりの会社です。泥舟に乗るような覚悟で戻りました。年収は会社員時代の半分以下になり、社内には「社長の息子」としての私に対する強い反発もあって、疎外感しかない状態でした。色眼鏡で見られて正しく評価されないということがつらかったですね。同じ苦労をするなら自らの力で起業する方を選びたかったですし、高知ハウスでの自分の存在意義について悩む日々が続きました。

「恩返し」として参画したからこそ、父が達成したいことを自分の仕事にしていく

――当時、高知ハウス様にはどのような形で入社されたのでしょうか。また、10年後に社長に就任されるまでの道のりも教えてください。

大和ハウスを退職して高知ハウスに入社するまでは、心の準備が必要で、30日間のサーフトリップに行きました。毎日車中泊して、サーフィンをして、なんとか自分をリセットしました。いざ入社すると取締役企画室室長という役職が用意されており、「地位が人をつくる」という考えを持つ父からは、実務はしなくてよいと告げられました。私自身は実務を通じて人に認めてもらいながら、上に上がっていきたいと考えていたので、受け入れるのに時間がかかりましたね。

肩書きこそ取締役企画室室長でしたが、仕事が与えられなかったので、最初に始めたのはこの会社で父がやりたいことをキャッチし、実現していくことでした。「オーナー様を招いてセミナーをやってみたい」、「オーナー様向けの新聞をつくりたい」といった、父がボソッと呟いたアイディアを一つ一つ形にしていきました。また、管理戸数2,000戸という父の目標を、私自身の目標に据えて、取り組んでいきました。父が創業した会社に恩返しとして入ったからこそ、父が達成したいことを自分の仕事にすることにしたのです。

当時の管理戸数は約800戸で、地域一とまではいきませんが、管理を事業の中心に据えている会社が少なかった中では先行している状況でした。ここから絶対的な地位を確立していくためには、ストック収入を社員の人件費とイコールにしていくことが大事だと考え、そのための目標管理戸数を自分自身で設定し、自転車で回りながら新規開拓も進めていました。

――実務を与えられない中でもお父様のボールを拾いながら、時間をかけて社内、そして地域で、再びご自身の新しい居場所をつくられていったのですね。お父様に対しては恩返しという気持ちとともに、上司と部下という縦の関係性を終始貫かれていたのでしょうか。

高知ハウスに入社してからは、「お父さん」と呼んだことは一度もありません。いまだにプライベートでも「会長」と呼びますし、敬語を使うことを自分に課しています。これには理由があって、父が成し遂げたいことをヒントに、自分で仕事をつくっていきましたが、当然のことながら社員も巻き込む必要がありますよね。入社当時の針のむしろの状況で社員を動かすには、「突然入ってきた二代目」という色眼鏡を外してもらい、評価されるに値する人物になることが絶対でした。だからこそ、実の父親を社長と呼び、敬語で話し、一社員として振る舞うべきだと考えたのです。

自分のためではなく、相手が幸せになることが原点にある行動しかしない

――そのエピソードからも当時の厳しさが伝わってきますね。社内で孤立無援だった状況をどのように脱却されていったのでしょうか。

嘘のような実話ですが、入社当初は社員との飲み会では何かとちょっかいを出され、全員と腕相撲をさせられるなんてこともありました。私はいろいろ経験をしましたから、体力にも自信がありました。ただ、社内で売られた喧嘩を買っても仕方がない。ぐっと我慢して、この人たちはどうして私にこんな態度をとるのか、そうならないためにはどうしたらよいのか、悶々と考えていました。心が病むほどに悩んでいたその頃の私を救ってくれたのは、マザー・テレサの言葉です。「あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。けり返されるかもしれません。でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。」という教えに出会えたことで、ぶつかられても常に真摯に向き合い、受け止めて、衝突からは逃げない姿勢を貫くようになりました。

自分のためではなく、相手が幸せになることが原点にある行動しかしないように、自分の心を一生懸命調整しました。若かったですし、消化できないものもたくさんありましたが、そうしているうちに少しずつ状況が変わっていきました。

――我慢から始まって、あり余る情熱をうまく収束して、尖った部分を残しながらもご自身を律してきた努力が、今の和田社長をつくられているのでしょうね。聞き惚れるストーリーです。38歳で社長に就任されてからの10年は、どのような10年でしたか。

私が社長に就任したとき、当時38名いた社員が20名ほどにまで一気に減ってしまいました。残ってくれた社員は、私を信じてくれた人たちです。そこから彼らと一緒に、それ以前の高知ハウスにはなかった経営理念を1年かけてつくったことで、自分の中でベクトルが合っていった感覚がありました。その後、評価制度の整備にも着手し、どうすれば会社の貢献につながり、どのように評価されるかを明確にしたことで、社員が営業の指標を自ら考え、挑戦する組織になりました。また、私が社長に就任してから注力したのは部署間の横軸の連携です。それまで点と点で業務をしていたのが、チームとして線になり、さらにつながって面になって、高知ハウス全体で営業するというカルチャーを推進していきました。

「日曜日が休みなら平日に行こう」とお客様に思っていただける会社になる

――日曜定休もこの頃に始められたお取り組みの一環だったのでしょうか。今でこそ業界の標準になってきた印象もありますが、どのように定着させていかれたのか、ぜひ伺いたいです。

日曜定休自体は創業時から既に始めていたことです。社員に子供ができたときも働き続けられるように環境を整えたいという、創業者である父の想いですね。私がそのバトンを受け取ったときに考えたのは、選ばれる不動産会社になれば、それでも一番になれるということです。差別化ができれば、私たちが営業しているときにお客様は来てくださると。そこで、不動産業界に蔓延している不動産会社寄りの慣習をすべてお客様寄りに変えていきました。「日曜日が休みなら平日に行こう」とお客様に思っていただける会社になろうと、発想を切り替えたんです。

――なるほど。営業時間の短縮を早い段階で進めていた一方で、論理的には減ってしまう来店のチャンスを埋めるための努力をされていたということなんですね。

世の中の動きや顧客のニーズの変化をいかにキャッチして、こうだったらよいなというものに果敢にチャレンジしてきたことは、日曜定休でも成績を残してこられたことの一因になりました。集客もかなり早期に紙媒体からインターネットへ切り替えました。私たちの業界ではレッドオーシャンになっていることに気づかずにやり続けてしまっていることが多いのですが、顧客目線に立って販路を考え、ブルーオーシャンのものを見つけてトライしていくことを意識したのは大きかったと思います。やがて誰もが気づき始め、平準化したとしても、サービス力は社内に蓄積されます。大事なのは常に先にチャレンジすることです。
トップが未来を見て開拓している姿は、会社や社員を守ろうとする意思の表れですよね。社員にとってもやりがいや帰属意識につながるし、そうした意識を持った社員が提供するサービスは、働かされているといった意識の社員のサービスに比べると格段の差がつくでしょう。だからこそ、トップは常に先を読まなければならないと考えています。

後編へ続く

インタビュアー:WealthPark Founder & CEO 川田 隆太

株式会社高知ハウス

代表取締役 和田英知
高知県高知市本町5丁目3番3号
会社ホームページ: http://www.kochihouse.co.jp/

<本件に関するお問い合わせ先>

株式会社高知ハウス
代表メールアドレス: info@kochihouse.co.jp
代表電話番号: 088-824-6822

WealthPark株式会社 広報担当
Mail: pr@wealth-park.com

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