2025.04.11
【特別対談企画 VOL. 25】「家業」から「企業」へ──福島の地とともに成長する次世代経営者・追分社長の軌跡
「不動産管理会社のいまを知る」をテーマに、業界をリードするゲストから貴重なお話をお伺いする連載企画。第25回は、福島県を拠点に不動産管理事業を展開する株式会社マーケッティングセンター代表取締役社長・追分裕太氏をお迎えしました。
東京への憧れから上京し、就職氷河期を乗り越えて社会人としてのキャリアをスタートさせた追分氏。しかし、父の一言をきっかけに福島へ戻り、未経験の不動産業界へ飛び込みます。本記事では、「家業」から「企業」へ舵を切った次世代経営者の奮闘、2011年の東日本大震災後の地域支援、不動産管理業の未来への展望に迫ります。
注意:本記事には、東日本大震災に関する記述が含まれています。当時の出来事を思い出すことで、不安やストレスを感じる可能性のある方は、閲覧にご注意ください。
ゲストプロフィール
株式会社マーケッティングセンター 代表取締役社長 追分 裕太氏
福島県福島市出身。卒業後、東京に憧れて上京。神奈川県の株式会社パスポートに入社し、業務スーパーで働く。その後、地元に戻り、父が創業した不動産会社に入社。事業用物件を扱うテナント部門に配属され、店長職を経て、代表取締役社長に就任。趣味は旅行(国内外)、サウナ、アニメ、お酒、ジム。
目次
東京への憧れと就職氷河期を乗り越えて
ーーまずは、追分社長が不動産業界に挑戦されることになった経緯についてお聞かせください。
追分:もともと父が福島市で酒類の卸売業を創業し、現在はいわき市や郡山市にも展開、アルバイトを含め約100人の従業員を抱えています。これが実家の家業です。一方で、父は酒販業と並行して不動産事業も手がけていました。この不動産事業が現在のマーケッティングセンターの前身です。
私自身は東京に憧れて上京し、さまざまな挫折を経験しながらも、就職氷河期に神奈川県の株式会社パスポートという会社に就職させていただきました。ここは主に酒類や食料品の卸販売を行う会社で、結果的に家業と近い業界に身を置くことになりました。業務スーパーに配属され、接客やレジ打ち、商品の仕入れ、品出しなど多岐にわたる業務を行っていました。朝早くから夜遅くまで働き、まさに仕事一色の3年間でしたね。
父の一言で決まったUターン
ーーその後、福島に戻られたのですよね。上京して、苦労を重ねながら社会人として基盤を築いた上でのUターンは、簡単な決断ではなかったのでは。
追分:もちろん戻りたくないという気持ちは強かったのですが、父の「帰ってこい」の一言が決め手となりました。父は昭和の経営者そのもので、抵抗すれば怒鳴られることは目に見えていましたから(笑)。
また、上京はしましたが、「こういうふうに生きていきたい」「これがやりたい」といった人生の目標が見つけ切れなかったのも事実。それもあって、父に言われるがまま帰郷しました。
ーーなるほど。一方で、経営や事業運営では、自分の思いを封じ込めて臨機応変に動くこと、意思決定の波に乗ることが求められる場面もありますよね。当時の決断が、結果的には経営者としての礎になったとも言えるのかもしれませんね。
追分:ありがとうございます。ただ、父や大人に従順な子どもだったかというと、そうでもなかったんです。福島の方言で「きかんぼ」と言うんですが、幼少期から学生時代にかけては非常にやんちゃで、よく怒られていました。最近、15年ぶりに中学の同窓会があったのですが、当時の教師にも「お前には本当に迷惑をかけられた」と愚痴をこぼされたくらいです(笑)。
未経験からの不動産業界への挑戦と試練
ーー福島に戻られてからは、すぐ不動産業界に入られたのでしょうか。
追分:いえ。2010年に帰郷し、最初の1年は実家の酒専門の店舗で勤務していました。しかし、翌年の東日本大震災の影響でグループ会社の不動産業に欠員が出まして。私が営業として配属されることになりました。
ただ、グループ会社とはいえ、全くの別会社です。直属の上司からは入社してすぐに「特別扱いはしない」と釘を刺されましたし、誰も仕事を教えてくれない。先輩の仕事を見て学びながら、約3ヶ月かけてようやく一通りの業務がこなせるようになりました。
ーーそれは厳しい時期でしたね。お父様は不動産業の事業承継を見越されて、追分社長を配属されたのでしょうか。
追分:少なくとも当時の私自身としては、社長になるとか、会社を引っ張っていくといった意識は全くありませんでした。数年働いていく中で、少しずつ経営に視点が向くようになったというのが、正直なところです。
東日本大震災と地域支援への覚悟
ーー東日本大震災のお話が出ましたが、当時の御社の取り組みについて聞いてもよろしいでしょうか。
追分:地震の発生時、私は配属されていた酒屋の店舗にいて、店内のお酒がすべて棚から落ちたことを今でも覚えています。水道も止まってしまったので、掃除もままならず、近所の井戸水をもらいに行きました。
家業は業務スーパーも運営していたので、「在庫はどんどん被災者支援に使って」とすぐに指示を出し、お米や食料品を住民の方々に向けて積極的に店頭に並べるようにしました。
不動産業としては、震災後すぐに自社ビルの飲食店などのテナントの家賃をゼロにする決断を下しました。自分たちが率先して無料にすることで、他のビルオーナーにも協力を呼びかけ、賃料減額を進めました。
ーー3ヶ月、半年の単位ではなく、かなり長い期間にわたって、地域再生に資源を投じられましたよね。その決断には相当な覚悟が必要だったと思います。
追分:得意先や地域の方々が大変なときこそ助け合うことが、結果的に地域経済を支えることにつながる。大震災を通じて、私自身そのことを強く実感しました。
結果として、短期的には収益に影響がありましたが、地域の信頼を得ることができました。震災後も、社内に地域とともに成長するという考えが根づいたことで、長期的な事業基盤の強化につながったと考えています。
ーー震災という未曾有の危機の中で、地域とのつながりを何よりも優先されたことが、今の御社の企業文化や経営の在り方にも大きく影響しているのだと改めて理解しました。
経営視点への転換と組織の変革
ーー帰郷されて間もなく大震災が発生し、地域支援を決断。そして、未経験の不動産業へ異動。そうした激動の時期を経て、どのように経営者としての視点を持つようになったのでしょうか。
追分:先ほど申し上げたように、私自身は最初から社長になろうと考えていたわけではありません。しかし、不動産営業の経験を積むうちにポジションが上がり、徐々に視点が変わっていきました。
自分の売り上げを伸ばしていくことに必死だったのが、「どうすれば店舗全体の売上を伸ばせるか」「今のやり方でいいのか」を本気で模索するようになりました。
当時の会社は、ルールが明文化されておらず、業務も属人的で、効率化が進んでいませんでした。そこで、私が取り組んだのは、「まず組織にする」ということ。社長になった今も変わらないスタンスですが、マイナス要素を一つひとつ洗い出し、改善していくことに徹底的にこだわりました。
例えば、修繕業者とのやり取りを標準化するためのフォーマットを作成し、業務の透明性を高めるなど、小さな変革を積み重ねていったんです。
もう一つ大きかったのが、広告宣伝費の見直しです。これまで住居用の物件には広告宣伝費を設定していたのに、テナント向けの物件では取っていませんでした。そこにメスを入れ、適正化することで広告収入を増やし、事業の収益基盤を強化しました。
ーーお父様が一代で築き上げられた事業を帰ってきたご子息が変えていくことには、苦労や難しさもあったのでは。
追分:それはすごくありましたね。これまでは個人商店の延長のような経営スタイルでしたから。
そんな中でも、私の考えに賛同し、ついてきてくれる先輩社員と一緒に、少しずつ「家業」から「企業」へと転換を図っていきました。公平な評価制度も導入し、従業員一人ひとりの力を最大限に発揮できる環境を整えました。
事業承継の苦悩と現場主義の実践
ーー多くの経営者が苦労するのが、事業承継ですよね。追分家の場合は、現場で家業から企業へと舵取りされていく追分社長の姿を見て、お父様も安心して預けられたのだと思いますが。
追分:いえいえ、そんなことは決してなく、事業承継も割と突然のことだったんです。入社して5年ほど経った頃、父から3年後に継がせたい意志を告げられて。社内には若くて実力のある取締役や幹部社員がいたので、戸惑いました。
特に、一部の取締役や幹部社員との関係構築には苦労しましたね。「新社長は本当に経営を担えるのか」という疑念を持たれることもありましたし、企業化していきたい私への内部反発や離反もありました。
そこで徹底したのは、最前線で業務に関わり、従業員と同じ目線で動くことです。実際に現場での仕事をこなしながら、業務の効率化や組織の整備を進めることで、徐々に信頼を得ていきました。
最終的には「この人と一緒に働きたい」と思えるメンバーを選び、チームを作ることができました。
ーー2018年の社長就任以降、管理戸数は2021年の5,618戸から2025年の6,549戸へと、順調に伸ばされていらっしゃいます。成長の秘訣は。
追分:不動産業は管理獲得が絶対であるという信念のもと、私の代から空室対策とリノベーションに力を入れています。高い入居率の維持が私たちの使命だと考えており、リノベーションを積極的に提案し、空室対策につなげていきました。
管理物件をエリアごとに分け、店舗に紐付けて管理しているため、リノベーションも各管理物件の特徴を把握している仲介営業スタッフが担当します。これにより適切なタイミングで適切な提案を行うことが可能となっています。
また、従業員たちのそもそもの悩みや問題に向き合うようにしています。管理が取れない、一歩がうまく踏み出せないのはなぜか。店舗を回って、店長やスタッフに意見を聞いて、一緒に考えていくことを心がけました。
ーー現場主義を貫きながら、事業を大きくされていったのですね。こうした追分社長から学びたい次世代経営者は多くいらっしゃると思います。最近では、エイブル様の「次世代会」の会長も務められているとか。
追分:はい。昨年6月に、福島で初めて開催しました。大事にしたのは、立場を超えてフランクに交流できる雰囲気にすること。
結果、「実は、うちでは…」と次世代ゆえの悩みや本音を共有できる場になりました。お互いに学び合い、励まし合える会として、これからも続けていきたいと思っています。
地域No.1企業を目指して
ーー現在、経営者としてどのような展望をお持ちですか。
追分:目標はこの業界で地域No.1の会社になることです。それは単なる規模の話ではなく、従業員にとって「この会社で働いてよかった」と思える環境を作ることに尽きます。
会社は地域やお客様のために存在するものですが、それを支えるのは従業員。地域やお客さまから必要とされる会社であり続けるために、従業員の生活をよくしていくこと、彼らの人生を支えられる会社になることが必須だと考えています。
ーー今後、力を入れていきたい取り組みはありますか。
追分:今、注力しているのはDX・IT化、そしてAIの活用です。地方の企業こそ時代に取り残されないためのデジタル化が不可欠ですが、社内にはITに強い人材が多くないため、試行錯誤しながら進めています。
私自身もシステムの導入や情報収集に積極的に関わり、「これはいい」と感じたものはすぐに取り入れるようにしています。その結果、気づけば私が総務のような仕事を担うこともありますが(笑)。
システムの導入による業務の効率化は、従業員の負担軽減にもなります。アウトソーシングすべき業務を適切に判断し実行していかないと、いずれは離職率の上昇につながる可能性があります。
DXの推進を通じて、働きやすい職場を実現し、従業員がより自信を持って仕事に取り組めるようにしていきたいですね。
経営者としてのリフレッシュ方法
ーー山形にも進出され、多忙を極める日々だと思いますが、行き詰まったときや疲れたときは、どのようにリフレッシュされていますか。
追分:まずはお酒ですね(笑)。あとはジムで思いっきりウォーキングやランニング、最近ではサウナにも行きます。福島なら飯坂温泉が特におすすめです。
旅行も大事なリフレッシュです。海外に出ると、言葉が通じない場面が多く、一生懸命伝えようとしたり、わからないなりに考えたりすることになります。
その過程で「生きるためのドーパミン」が出る感じがすごく好きなんです。
一度、間違えられてベトナムで捕まったこともありましたが(笑)、それもまた旅の醍醐味。予期せぬ出来事が起こるからこそ、旅は面白いんです。
人生を預けたくなる会社をつくりたい
ーー震災後の地域支援から始まり、家業の企業化、事業承継、管理事業の拡大──追分社長の歩みは、常に「地域」と「人」を中心に据えたものだったと感じます。最後に、従業員の皆さんへメッセージをお願いします。
追分:私が今ここにいられるのも、この会社が続いてこられたのも、すべて従業員一人ひとりのおかげです。だからこそ、「安心してついてきてほしい」と心から思っています。
叶うことなら、皆さんの人生を少しでもよくするお手伝いがしたい。「ここで働き続けたい」「ここなら人生を預けてもいい」、そう思ってもらえるような会社を本気で目指しています。
ーーその言葉から、追分社長の従業員への深い愛情と覚悟が伝わってきますね。今日一番の笑顔でした(笑)。本日は貴重なお話をありがとうございました!
追分:こちらこそ、ありがとうございました!
インタビュアー:WealthPark Founder & CEO 川田 隆太
追分社長のおすすめ
インタビューの締めくくりに、追分社長から福島の”おすすめのお店や逸品”を教えていただきました。多忙を極める追分社長の日々の活力やリラックスの源になっている、とっておきの4選をご紹介します。
株式会社マーケッティングセンター
代表取締役社長 追分 裕太氏
〒960-8034 福島県福島市置賜町5-3
会社ウェブサイト: https://www.market-c.co.jp/
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WealthPark株式会社 広報担当
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