Articles

2026.02.07

【特別対談企画 VOL. 31】学びをつなぎ続ける。信頼を軸に、不動産業界で描く新たな航路

「不動産管理会社のいまを知る」をテーマに、業界をリードするゲストを迎える連載企画。第31回は、賃貸管理・仲介会社の経営層が学び合う「ちんたい研究会」の代表を務め、株式会社クレシオの代表取締役としても活躍する木村勉社長にお話を伺いました。
保険業界での長いキャリアの終盤、転機の中で出会った不動産管理会社の経営者たち。その学びとつながりを原点に「木村塾」、そして「ちんたい研究会」へと発展した軌跡、さらにご子息とともに描く新たな挑戦まで――。信頼と縁を軸に、不動産業界で新たな航路を進む木村社長の物語をお届けします。

ゲストプロフィール

ちんたい研究会 代表 / 株式会社クレシオ 代表取締役 木村 勉氏
三重県出身。大東京火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)に入社後、約37年間にわたり損害保険業界でマーケティング・新規事業の最前線を担う。不動産管理会社との接点を機に業界研究を深め、経営層同士が学び合う自主勉強会「木村塾」を創設。のちに、「ちんたい研究会」として体系化し、全国170社以上が参加するネットワークへと発展させた。2017年に株式会社クレシオを設立し、研究会運営を基盤に、近年は賃貸仲介管理業にも挑戦。「アイデアで、笑顔を創る」を信条に、地域と人をつなぐ新しい不動産経営を追求している。

目次

三重の小さな町から見えた“大きな世界”

――まずは、木村社長のご出身や幼少期について教えてください。

私の生まれは三重県志摩市ですが、育ちは松阪市郊外の射和(いざわ)という小さな田舎町です。

幼少期から中学まではのびのびと育ち、先生から怒られない日がないほどのいたずら坊主でした。クラスの大半が農家の子どもで、人口は1,000人もいないような、のどかなところでした。

一方、射和は「豪商のまち松阪」の一角として知られ、江戸を代表する大富豪を十家以上も生み出した町でもあります。東京・日本橋には今も「伊勢町」という地名が残っていますが、これは射和をはじめとする松阪の人々が江戸に進出し、巨額の富を築いた名残です。国分(現K&K)、三越、三井なども、こうした伊勢商人の系譜と連なります。

小学生の時、よく一緒に遊んだ友達の家が、実はかつて江戸で一番の両替商であったことを、最近になって知ったものでした(笑)。

東京で育まれた”人との縁“と成長の時間

――東京に出て来られたのは、高校進学のタイミングだったそうですね。

はい。兄が先に東京の高校に進学していたため、「僕も東京に行きたい」と親にダダをこねたわけです。兄は勉強が得意で、小学生の時から、毎日遅くまで勉強しており、親も大変期待をかけていました。高校は東京の進学校で学ばせたいと、上京させたのです。

一方、次男の私は、小さい時から友達と遊びまわったりクラブ活動に没頭したり、勉強は親に怒られてしぶしぶやる程度。親は地元の高校に進学させたかったと思いますが、附属高校なら受験勉強しなくても大学に行けるだろうと、安易な気持ちで中央大学附属高校に入学しました。

――東京での経験は、木村社長の価値観にどのような影響を与えたのでしょうか。

東京での高校生活は、いろんな意味で良い経験だったと思います。決して裕福な家庭ではありませんでしたが、無理をして上京させてくれた両親には、感謝しています。

今では「下宿屋さん」というものはほとんどなくなりましたが、昔は地方から出てきた学生の多くが下宿していました。お風呂は銭湯に行き、部屋に炊事場もないため、定食屋で食事をする生活です。

当時もアパートはありましたが、アパート住まいの学生は、お金持ちの子ぐらいでした(笑)。下宿も、3畳、4畳半、6畳とランクがあり、親は無理をして私に4畳半を借りてくれました。

私がしゃべる三重弁をクラスメイトに笑われ、異国に来たような感じでした。言葉だけでなく、考え方や文化もあまりにも違い、毎日が驚きの連続でした。ホームシックを感じることもありました。

その一方で、クラスメイトたちがそれぞれの家に招いてくれたことで、都会の人々の生活や風習、考え方などが理解できるようになり、とても貴重な機会を得ることができたと思っています。

特にクラスメイトの一人のご家庭との出会いが、その後の私の人生に大きな影響を与えました。ご両親には就職の世話から仲人までしていただき、今でもそのご家族とは交流が続いています。

ご縁が開いた扉──損保への第一歩

――そのご縁が損害保険会社への就職にもつながっていったのですね。

はい。そのクラスメイトのご両親は、虎ノ門に弁護士事務所を構え、数多くの大企業の顧問をされていました。交通事故関係の訴訟事案にも長け、弁護士会でも大御所的な存在の先生であったことから、損保の顧問も複数されていたのです。

門下生のような方もいらしたのですが、私の一つ年上で、弁護士夫妻も期待されていた秀才でした。そんな方が、富士火災海上保険に入社したと聞き、損保に対して大変興味を持つようになりました。

――数ある損保の中で、なぜ大東京火災海上保険を選ばれたのでしょう。

当時、日本は不況下で、損保は不況になればなるほど人気が高まる業種でした。保守的な損保業界の中で、大東京火災だけはごぼう抜きの勢いで成長し続けており、最も活気のある損保でした。「自分は非財閥系のこの会社を第一志望にしたい」と、弁護士ご家族に紹介を依頼しました。

当時は「就職解禁日」というものがあり、その日の朝一にどこの会社に行くかで、第一志望か否かがわかる仕組みでした。東京海上に徹夜で並ぶ学生がいたと、ニュースにもなったほどです。大東京火災も勢いのある会社として人気が高く、解禁日の朝に本社へ向かうと、100メートルを超す学生たちの長蛇の列でした。弁護士家族とのご縁で入社できたようなものです。

未踏の挑戦が教えてくれた“責任”の重み

――当時の損保業界は、新しい取り組みが次々と生まれていた時代ですね。木村社長は、どのようなことをなされていたのでしょうか。

入社して最初の配属は、静岡県の藤枝支社でした。その後、茨城県の日立支社に移動した後、企業保険部に配属となりました。ダイエーやイオン、長崎屋などのチェーンストアを専門に担当する部署で、係長から課長に至るまで10年間勤務しました。

その後は、当時としては新しい試みだった通販型の保険ビジネスにも携わりました。「通販=代理店の敵」と言われる時代で、社内では慎重な議論が続いていましたが、海外の潮流を見れば、いずれ日本も変わるだろうという確信がありました。

――挑戦の先には、さらに大きなプロジェクトがあったそうですね。

はい。社内では新しい損害保険会社を複数立ち上げる構想が生まれ、私がその一社の最高責任者を任されました。制度設計から金融庁との認可折衝まで前例のない仕事で、2年以上にわたる調整の末、ようやく資本金15億円の新損保(保険ショップを全国展開する企業とあいおいニッセイ同和損保の合弁会社)を設立できました。大阪府からも「数十年ぶりの大阪本社の新損保が誕生」として、応援をいただくほどでした。

その新損保は、非対面(ウェブ)と対面(保険ショップ)という両チャネルを活用し、スピード感を持って顧客ニーズに応える体制を整え、保険料も割安で、付帯サービスの質も大手以上の水準を実現した画期的なものでした。

しかし、日本は欧米のようには自動車保険通販が伸びず、かつ販売のメインチャネルであった親会社の保険ショップ展開が事業戦略の見直しにより縮小する形に。開業当初から計画値に成績が届かない状況が続きました。そして、開業3年目の段階で事業継続を諦める決断を余儀なくされる状態に陥ってしまいました。

後始末だけが重くのしかかり、既存顧客への対応、プロパー社員の再就職先の斡旋、金融庁対応に明け暮れる日々となりました。金融庁からは新損保の前代未聞の事業撤退に烈火のごとく叱られ、何度も呼びつけられ、かなり辛い日が続きました。

会社人生をかけたビッグプロジェクトが大失敗に終わり、家庭も犠牲にしてきた自分の人生は一体何だったのだろうかと、自問自答する日々でした。夕暮れ時に父の墓前で、一人大粒の涙を流して泣きました。

もう一度、学びから──不動産業界で見つけた希望

――保険業界で長くご活躍された木村社長が、不動産業界に関わるようになったきっかけを教えてください。

新損保プロジェクトを閉じた後、あいおいニッセイ同和損保の関連事業会社となるエタニティ少額短期保険の社長として出向することとなりました。全管協インシュアランスグループ(全国賃貸管理ビジネス協会を母体とする保険グループ)に属する会社であり、ここで初めて不動産業界の方々と接点が生まれることとなりました。

――業界が違えば文化も違いますよね。最初は戸惑いも多かったのでは。

もちろん最初は右も左もわかりません。不動産業界の本を読んでもピンとこないし、専門用語も未知の領域。全管協の経営セミナーに参加してみても、ほとんど頭に残らない。そこで、セミナーを録音し、家に帰ってから全部文字起こしをしてみたんです。

すると「はっ」と気付きました。「すごいことを言っているじゃないか」と。聞いているだけでは流れていく言葉が、文字にすると心に残る。文字起こしをしているうちに、どんどん興奮してきたのです。

それまでは、賃貸仲介管理会社の社長さんたちとお話していても、天気の挨拶ぐらいで終わることも多く、10分の間が持てなかったものでした。ところがセミナーを通して得た知識を自分なりに整理して話すようになると、相手の反応が明らかに変わっていきました。

2時間の話を文字起こしするには、10時間以上根詰めて行う必要がありましたが、手を動かすことでしか身につかないという実感がありました。その文字起こしをしたメモを社長さんたちに見せると、「初めて知った」「知らなかった」と驚かれることも多く、長年業界活動されているような方々でも、他社の取り組みは、意外と知らないことに気づかされました。

この業界は、皆が見よう見まねで行っており、同じところで行き詰まり、悩んでいます。そこで、高みを目指す経営者同士が皆で教え合う交流の場ができれば、皆がもっと喜ぶのではないか。そう考えるようになりました。

学びを分かち合う──「木村塾」の始動

――”学びを共有する場”が、いよいよ「木村塾」へと形になっていくわけですね。最初はどんなスタートだったのでしょうか。

きっかけは、とても自然なものでした。学びを重ねるうちに、「自分だけで理解して終わらせるのはもったいない」と感じるようになりました。業界の課題や優れた取り組みを共有できれば、皆がもっと良くなっていく。そんな想いから、小さな勉強会「木村塾」を立ち上げました。

最初の木村塾では、徳島のシティ・ハウジング株式会社さんを訪ねました。当時の社長を務めていた松田比呂紀氏(現・シティホールディングス株式会社代表取締役CEO/シティ・ハウジング株式会社取締役会長)は、単に部屋を貸すだけではなく、地域の若者の未来を支える仕組みを創っておられました。

学生向けの情報誌「大学BOOK」には、徳島大学のキャンパスライフが紹介され、夢と希望を与えるようなコンテンツが随所に盛り込まれていました。また、独自の奨学金制度を立ち上げ、学生を支援するなど、社会貢献の活動も積極的にされていました。

その姿勢に、「不動産会社って、こんな形で地域や社会と関われるのか」と、強い衝撃を受けたものです。

一緒に伺った参加者たちも大喜びでした。シティ・ハウジングさんの奨学金制度は、参加企業がすぐに取り入れたほどです。ホスト役を担っていただいた松田社長にも、いろいろな企業さんとの交流のきっかけができたと、大変感謝していただきました。

こんなに皆さんに喜んでいただけるなら、もっと木村塾を展開していこうと思ったものでした。

――木村塾の開催は、最初から順調だったのでしょうか。

いいえ、最初から順風満帆ではありませんでした。

メンバーがいつも一緒であれば飽きてしまうため、常に新たな刺激的なメンバーを集める必要がありました。当時の木村塾は全くの無名であったため、勉強会にお誘いしても、うさんくさく思われることもありました。ホスト役を依頼しても、無報酬(ボランティア)での引き受けに、難色を示す会社もありました。開催するとしても、無報酬では内容を落とさざるを得ないと言われたこともありました。

志をつなぐ──ちんたい研究会が描く未来

――木村塾での学びの輪が、のちに「ちんたい研究会」へと発展していったのですね。

実は、エタニティ少額短期保険の退任時、つまりあいおいニッセイ同和損保を定年退職した節目で、木村塾も止めようと思ったことがありました。しかし、メンバーの方々から、「もっと続けてほしい」との声をたくさんいただきました。

あいおいニッセイ同和損保でのビッグプロジェクトの失敗は、ずっと心に引きずっていましたので、このまま失敗という結末で人生を終えたくないという気持ちも強くありました。

周りの方々の後押しもあり、名称も新たに「ちんたい研究会」として走り出しました。

失意の中で出向したエタニティ少額短期保険で知り合った業界の方々は、皆温かく味のある方が多く、いつも心が安らぎました。だからこの業界の方々が大好きでした。

ちんたい研究会を通して、今度は自分が真の恩返しをしようと決意したものです。

――会の運営方法にも、強いこだわりがあると伺いました。

はい。ご承知のとおり、ちんたい研究会は私を含め全員がボランティアで開催しています。

ベンチマーク屋でも、セミナー屋でもありません。「高みを目指す企業のみで、一緒に勉強し、困った時は何でも相談し合えるネットワークを創ろうぜ」と立ち上げたものです。

ちんたい研究会を始めるにあたっては、勉強会の質を高めれば、必ず皆がついてくるという信念だけはありました。

先進の取り組みをされている方々から、そのノウハウをお教えいただくには、聞き手側が真剣に学ぶ姿勢で挑むことが重要と考え、参加者には厳しいルールを設けました。

礼を欠く企業は少しずつ締め出し、入れ替えを始めました。オンラインではブラインド参加を締め出すようにしました。画面越しに携帯電話や仕事をしながらの「ナガラ参加」には、厳しく叱責することもありました。張り詰めた雰囲気・緊張感が、会の鮮度を維持し、レクチャーする側の質を高めることができると考えたからです。

そういったこだわりからか、他にはない質の高い勉強会として、徐々に注目を集めるようになりました。

――そうした姿勢が、多くの共感を呼んでいるのですね。

最近、「いろいろな勉強会に参加してきたが、ちんたい研究会が一番面白く、内容が充実している」との声をいただくことが多くなりました。毎回、欠かさず参加する企業も複数あります。

以前は苦労した新しいメンバーの取り込みも、今ではいろいろな企業から「入会させてください」と頭を下げられることが多くなり、新規メンバー集めには事欠かない状況です。ありがたいことだと思っています。

――今後、ちんたい研究会として目指していきたいことを教えてください。

勉強会で重要なことは、マンネリ化させないことだと思います。ちんたい研究会も、毎年少しずつ、新しいアプローチ方法、新たな企画等を取り入れ、会の鮮度を保つ努力をしてきました。当初は、経営層のネットワークから始めましたが、今では部門別・階層別の勉強会を年間20回開催するに至っています。

また、「ちんたい研究会なんでも相談チャット」を立ち上げ、活発な情報交換が部門別・階層別に行われるようにもしました。来年は、この階層別・部門別のチャットを軸に、より実践的な勉強会を活発化させていこうと考えています。

今後の大きなビジョンとしては、ちんたい研究会をハブとし、オーナーマーケットや、入居者・テナントマーケットをつなぐプラットフォームにしていくことを目指しています。今、いろいろなマーケット先と提携の具体化を進めているところです。

そして、私にとって、何よりも一番の夢は、この「ちんたい研究会(=寺子屋)」から、新しい時代のリーダーやスペシャリストを一人でも多く輩出することです。そうした方々が、将来私の墓前で「ちんたい研究会で育ちました」と拝んでいただければ、天国でウハウハするかもしれないです(笑)。

まだまだ私の努力が不十分だと思っています。そのためには私自身が、もっともっと頑張っていかなければなりません。

新たな挑戦を、次の世代とともに

――ちんたい研究会と並行して、新たな挑戦も始められたそうですね。

はい。クレシオ自体は2017年に設立していましたが、長らく業界を横で支える立場として、ちんたい研究会の運営やネットワークづくりが中心でした。賃貸仲介管理業に踏み出したのは、実はごく最近のことなんです。

転機となったのは、次男が数年前に東京の小さな不動産会社に働き始めたことでした。驚くほど楽しそうに仕事に向かう姿を見て、「自分もこの業界の学びやご縁をいただいているし、親子で挑戦してみるのもいいかもしれない」と考えるようになりました。

こうした親子それぞれの想いが重なり、クレシオとして賃貸仲介管理業に本格参入しました。

私にとっては、キャリアの新しいページを開く挑戦であり、次男にとっても、自分の力で未来を創る第一歩でした。

――まさに“新しい船出”ですね。

とはいえ、私も実務に詳しいわけではありません。ですから、次男と私だけでなく、いろいろな方々に力を貸していただいています。

賃貸不動産経営管理士の試験作成委員や、賃貸の各種契約書関係のドラフト作成に携われた、業界における賃貸管理のエキスパート的存在である及川義和氏には、ちんたい研究会だけでなく、クレシオの面倒も見ていただいています。その他にも、多くの方々に支援いただき、少しずつ形になってきています。

――ご自身にとっても、新しい挑戦としての学びがあるのではないでしょうか。

そうですね。やはり、あいおいニッセイ同和損保では、心に傷を負う不完全燃焼の終わり方をしただけに、何かに挑戦して燃え尽きたいという想いはありました。

私はこれまで「業界を横でつなぐ」ことに力を入れてきましたが、今は一事業者として「現場の視点」に立ち返っています。実際に現場で働いてみると、賃貸仲介管理会社がどれだけ社会に根ざしたビジネスであるか実感します。景気の波にも左右されにくく、災害が起きたとしても、新たな需要が生まれて地域に貢献できる。これほど安定して、社会の役に立てる仕事はありません。次男にも「この業界は一生かける価値がある」と伝えています。

――今後、会社として目指して行きたい方向を教えてください。

クレシオは、規模を追求するのではなく、業界でもオンリーワンと言われるようなサービスを追求していくような会社を目指したいと考えています。極力、専門の会社と提携することにより、オリジナルサービスを開発し、差別化を図りたいという考えです。

その一つが外国人入居者へのオリジナルサービスです。今後人口減少が進む中、外国人入居者は、これからの日本を支える大切な存在です。ビザや住まい、教育や就労、そうした生活の基盤を支えるのが不動産会社の新しい役割だと思っています。

「まずは外国人が最初に相談できる場所にしたい」。それが、私たちクレシオの小さな目標です。そこから学校や行政、企業などに橋をかけていけるようになればと思っています。

――最後に改めて”今“の木村社長にとっての仕事の意義を教えてください。

若い頃は”会社のため“に働いてきました。でも今は、”人のため“に働くことが一番のやりがいです。

現在、妻が経理・総務関係を見てくれており、長男も社外取締役で携わってくれています。皆で手を合わせながらクレシオを運営することで、ようやく家族との時間も取り戻せた気がします。

そして何より、この業界は努力すれば必ず報われる。そんな「アメリカンドリーム」のような魅力があります。息子たちには、自分の力でその夢をつかんでほしいと願っています。私自身も、まだ挑戦の途中です。これまで育ててもらった業界にも恩返しをしながら、次の世代とともに、新しい未来を創っていきたいですね。

インタビュアー:WealthPark Founder & CEO 川田 隆太

木村社長のおすすめ

インタビューの締めくくりに、木村社長から千葉の”おすすめのお店や逸品”を教えていただきました。多忙を極める木村社長の日々の活力やリラックスの源になっている、とっておきの3選をご紹介します。

ホームコースの浜野ゴルフクラブ内にある、料理長の腕が冴える“隠れた名店”。友人とのプレー後には、特別に用意していただく懐石コースを皆で楽しんでいます。

今まで食べたいちご大福の中で一番のお気に入り。予約必須で、毎年いちごの季節には上総一ノ宮まで買いに行きます。驚くほどフレッシュでフルーティな味わいです。

ラーメン界の名匠・森住氏が手がける、緑豊かな田園風景に佇む古民家のラーメン店。行列必至の人気店で、こだわり抜いた一杯が味わえます。

株式会社クレシオ

代表取締役 木村 勉
〒273-0011 千葉県船橋市西船4-8-15 3F
会社ウェブサイト: https://www.crecio.net/

<問い合わせ先>

株式会社クレシオ
Contact: お問い合わせフォーム窓口
WealthPark株式会社 広報担当
Mail: pr@wealth-park.com

RELATED ARTICLES

  • Articles

    2025.12.18

    【特別対談企画 VOL. 30】志でつなぐバトンリレー──生活プロデュース堀籠社長に聞く、承継と未来への挑戦

  • Articles

    2025.08.01

    【特別対談企画 VOL. 29】信頼は、向き合い続けた先に。変化を越えて、横浜で積み重ねる不動産経営の本質

  • Articles

    2025.06.27

    【特別対談企画 VOL. 28】「やり切る力」と「しなやかさ」で組織は進化する──井村社長が語るADIのこれから

  • Articles

    2025.05.23

    【特別対談企画 VOL. 27】組織の地力で未来をつくる──不動産と教育の交差点で描く成長戦略

  • Articles

    2025.05.02

    【特別対談企画 VOL. 26】常識を疑い、誠実を貫く──アセットデザインカンパニー 亀田社長が語る“現場起点”の経営哲学

  • Articles

    2025.04.11

    【特別対談企画 VOL. 25】「家業」から「企業」へ──福島の地とともに成長する次世代経営者・追分社長の軌跡