2022.08.19
特別対談企画(前編)ヤマモト地所山本祐司氏・富貴氏に聞く、「地域、社員、家族との信頼づくり」の秘訣
「不動産管理会社のいまを知る」をテーマに、業界をリードするゲストをお迎えし、貴重なお話をお伺いする連載企画。第16回は、高知県四万十市で地域密着の総合不動産業を営む、有限会社ヤマモト地所 代表取締役 山本祐司氏と常務取締役 山本富貴氏にお話を伺いました。
前編では、祐司氏と富貴氏のユニークなキャリアパスやご夫妻のなれそめ、二人三脚で育ててきたヤマモト地所様の変遷についてお話しいただきました。(前編/全2回)
ゲストプロフィール
有限会社ヤマモト地所 代表取締役 山本 祐司氏
東京都中野区で生まれ、高知県四万十市で育つ。大学中退後は大阪・東京を拠点に、在学中に始めたバンド活動に没頭。その後、四万十市に帰郷し、2008年に父が創業した資産管理会社である山本地所に入社。同社で宅地建物取引業の免許を取得し、ヤマモト地所に社名を変更して不動産業を開業。『四万十市の住環境の向上に寄与し、地域の発展に貢献する。また、社員ひとりひとりが働きやすいと感じてくれる会社を創る。』をビジョンに掲げ、四万十市になくてはならない会社の創造を目指す。趣味は、旅行、グルメ、ゴルフ、宅トレ、サウナ。
有限会社ヤマモト地所 常務取締役 山本 富貴氏
高知県南国市出身。大学卒業後、高知県警に務める。赴任先の四万十市で祐司氏と出会い、結婚 。単身赴任で刑事を続けていたが、生き生きと不動産業を営む祐司氏の姿を見て退職を決意。宅建に一発合格した後、2010年にヤマモト地所に参画。賃貸、売買、管理、相続支援、スラム化したエリアの再生といった幅広い業務を担いながら、協会や行政のセミナーにおける講演やSNSでの情報発信などの対外的な活動にも積極的に従事。趣味は、グルメ、ゴルフ、サウナ、ピアノ。
TOC
バンド活動を通じて、お客様に喜んでいただくことの大切さを実感
――今回は初のご夫妻へのインタビューということで、お二人を下のお名前でお呼びしますね。まずは、祐司さんと富貴さんのご経歴から伺いたいのですが、お一人ずつご紹介いただいてもよろしいでしょうか。
祐司氏:生まれは東京の中野区ですが、4歳で父の故郷である四万十に戻り、保育園から高校までこの地で過ごしました。高校時代は自由な校風のもとで部活や遊びに明け暮れており、大学受験は当然失敗(笑)。一浪して大阪の大学に進学したのですが、そこで出会った先輩に誘われて始めたバンド活動によって、人生が大きく動きました。その先輩には不思議な魅力やカリスマ性があり、ライブハウスで演奏すれば動員記録を更新、全国オーディションに出れば準優勝と、トントン拍子で進んでいき、事務所に入って大阪と東京で活動するようになりました。その後、レコード会社から声がかかるまでは順調だったのですが、世の中はそんなに甘くなく、結局はデビューできないまま解散することになりました。
約3年という短い期間でしたが、バンド活動を通じて、お客様や関わってくれる方々の期待に応えることの大切さを実感できたことは、現在の私の仕事の根幹となっています。私を音楽の世界にいざなってくれた先輩は、いかにして相手に喜んでもらえるかを常に考えるような人で、今でも尊敬しています。当時は言語化ができていませんでしたが、彼のそうした姿勢こそが周囲の応援につながっていて、まさに今でいう「ファンビジネス」だったんですよね。
都会のバンドマン生活から四万十に戻り、不動産業を営むことに
――冒頭からドラマチックな展開ですね。それからどのような経緯で四万十に戻られ、ヤマモト地所を始められたのでしょうか。
祐司氏:バンドをやめてすぐに四万十に帰るつもりでしたが、意外にも父から「あと1年は都会にいたら」と言われてしまったんですよね(笑)。そこで、色々な場所に行けて身体も鍛えられるという理由で、1年間は引越し業者でアルバイトをしていました。厳しい仕事で人の入れ替わりも激しかったのですが、残ったメンバーとの仲間意識は強くなり、彼らとは今でも仲良くしています。
その後、満を持して帰郷し、父が役員を務める酒造会社に入社しました。ところが、複雑な経緯によって経営状態が悪化しており、解散することになってしまって。無職になった私に、父が自分の会社である山本地所(旧称)で不動産業をやってみないかと声をかけてくれました。山本地所は父の所有する商業ビルや月極駐車場といった資産の管理目的で立ち上げられたファミリービジネスでしたが、父は宅建の資格も取得していたので、これを機に不動産業に挑戦してみたらどうかと。このときに社名をヤマモト地所に変更しました。
――なるほど。家業の不動産業を継いだというよりも、2008年に祐司さんが参画されることになって、不動産業に舵を切られていったということなのですね。先程のバンド活動のお話にも通じると思うのですが、図らずとも降ってきた機会には柔軟にチャレンジし、結果を残していくのは、祐司さんのご性格なのでしょうね。
祐司氏:父の会社と資格があったおかげで、四万十で不動産業を営むという新しい道に進ませてもらえたことは幸運だったと思います。自分の意志で選び取った道でなくとも、私はやると決めたからには自分からは絶対にやめないタイプの人間。18歳で四万十を出て、大阪という都会で生活もしましたが、帰郷してからは都会に戻りたいと考えたことも一度もありません。ここまでこの地でやり抜いてこられたのは、確かにこうした性格にもよるところもあるのかもしれませんね。
犯罪心理学や少年非行に興味を持ち、警察の道へ
――こからは富貴さんのキャリアストーリーを聞かせてください。富貴さんも元刑事ということで、祐司さんに負けず劣らずの異色のキャリアですよね(笑)。
富貴氏:私は高知県南国市の出身で、中学からは地元ではなく高知市にある進学校に入学し、医者を志していました。母が医大に勤務していたので医学の世界が身近にあったのと、幼い頃からヒトに興味があって。また、「頭がいいから医者になったらいいよ」と親におだてられて、期待もされていました(笑)。
ところが、高校2年のときに父が癌で急死。亡き父に病床で「医者になるからね!」と約束したものの、高校3年の夏の時点で医学部現役合格には程遠い学力で、父との約束が果たせない自分が情けなく、人生の挫折を味わいました。つらい時期ではありましたが、医者を目指す過程で興味を持った心理学の道に進もうと方向転換し、一浪して早稲田大学の心理学コースに進みました。地方の国立大学も受かっていたのですが、都会に出てみたいという私の子供の頃からの好奇心を母が汲み取ってくれ、母子家庭で経済的に苦しい中、都会へ行かせてくれました。でも、田舎育ちの私は都会の人混みに慣れなくて(笑)。
最終的に警察の道を選んだのは、就職氷河期という時代背景が大きいですね。民間企業の初任給では東京で暮らしていけるイメージが持てず、公務員になろうと家庭裁判所の調査官を目指して勉強していました。犯罪心理学や少年非行に興味があり、家庭裁判所の他に、警視庁、高知県警、それから陸上自衛隊の幹部候補生を受けました。結局、警察と自衛官の両方に合格したのですが、母のいる地元の高知県警を選びました。
――私も富貴さんと同世代ですが、安定性を求めながらもできる限り興味関心に近い仕事を選ぼうと、誰もが選択のバランスに苦労していた時代でしたよね。刑事の富貴さんが元バンドマンの祐司さんに出会い、ヤマモト地所をご夫妻で営むようになるまでには、どんなストーリーがあったのでしょうか。
富貴氏:私が巡査部長に昇進して、高知警察署から中村警察署に異動になり、四万十にやってきたことがきっかけです。ちなみに、巡査部長といってもイメージしづらいと思いますが、「こち亀」の大原部長が巡査部長です(笑)。
祐司氏:出会いは商店街の酒屋さんで開催された焼酎イベントで。富貴ちゃんは酒飲みの上司の誘いで、私はその頃は酒造会社にいたので仕事で参加していました。私が開始時刻に遅れて空いている席に座ったら、目の前にいたのが彼女でした。彼女よりも上司の方と意気投合して(笑)、みんなで2軒目に移動したのですが、二人とも職業を教えてくれないので、謎の二人でしたね。
富貴氏:祐司くんもバンドマンをやめて四万十に戻ったばかりの頃で、髪型はオカッパだし、耳にはたくさんの穴が空いているし、私からすると怪しかったですよ(笑)。
祐司氏:結局、2軒目の途中で彼女は帰ってしまったのですが、連絡を取りたくて、私の名前と連絡先を上司の方から彼女に伝えてもらいました。ようやく彼女から連絡をもらえて、出会った6月に付き合い始めて、10月に結納し、年明けに一緒に暮らし始めて、2月に結婚しました。
「困っている人を助けたい」という志は、刑事も不動産業も一緒
――まさにスピード婚ですね。結婚されて、祐司さんがヤマモト地所として不動産業を開業された2年後に富貴さんも参画されていますが、刑事のキャリアを手放してまで未知の不動産業に飛び込まれたのは、どのような心境の変化があったのでしょうか。
富貴氏:当時の警察はとにかく女性が少なく、初の女性署長として期待もされていましたし、周囲にもよくしていただいた一方で、色んな妬みもあってつらいことも多々ありました。また、それ以上にこたえたのが殉職の危険です。手榴弾を投げられる可能性がある場所で鉛の鎧を着て待機したり、危ない場所に丸腰で突入したりと、田舎で人数も少ないので、なんでもやらないといけなかったんですよ。そうして命をはって犯人を捕まえても、すでに被害に遭われた方を救えるわけではなく、特に私が担当していた被害者の女性達と関わるうちに無力感に苛まれたこともありました。
かたや、不動産業を始めた祐司くんは本当に楽しそうで。「今日はこんなお客さんが来てくれた」とか、「こんな素敵なアパートがあるよ」とか、毎日笑顔で仕事の話をしてくれる中で、だんだんと気持ちが退職の方向に傾いてきました。単身赴任だったのも後押しになりましたね。毎晩のように長電話して、週末は往復4時間かけて帰ってくるという生活は2年が限界でした。
――そうしたつらい時期を経て、富貴さんが入られてからは二人三脚でどのように会社をつくられていったのでしょうか。
富貴氏:最初の数年は、ただただ楽しくて。経営は義父と義母が行い、私達は営業に従事させてもらっていました。不動産の知識も経験もないので、二人で図書館に行って本を借りて、一から勉強して、仮説を立てては実行しての繰り返し。地元で困っているお客様のために尽力し、喜んでいただけるのがとにかく嬉しかったですね。不動産の仕事と刑事の仕事はまったくの畑違いだと思っていましたが、「困っている人を助けたい」という志は一緒だということにも気づきましたし、この頃に得られた使命感が今でも原動力となっています。
何があってもお互いがいると思えるからこそ、苦労やピンチも乗り越えられる
――その後、徐々に家業から企業へと本格的にシフトされていき、今年で14年目を迎えられましたね。いろいろなことをお二人で乗り越えてこられたのだと思いますが、どのような苦労やピンチがあったのでしょうか。
富貴氏:私が入って数年は二人で営業していたのですが、徐々に忙しくなってきたタイミングで、宅建の資格を持っている社員が入社してくれました。彼のノウハウのおかげで事業も成長しましたし、人も増えて、家業から企業にしていきたいという想いが少しずつ形になってきました。ところが、私達側に社員教育の力が足りなかったんですよね。いつのまにか思い通りにやってほしいという気持ちが前面に出過ぎてしまい、社員と衝突し、離職が続きました。このときはつらかったですね。
祐司氏:つらかったよね。今も残ってくれている取締役の長岡くん以外は全員が辞めてしまって。ここまでのピンチが起こると、もう二人で支え合うしかない。つらいときほどお互いがお互いに優しくして、「ピンチをチャンスにしよう」と慰め合っていました。このときに感じたのは、無限に信用できる富貴ちゃんが組織にいてくれるのは、私の心のセーフティネットなんだということ。何があっても彼女がいてくれると思えるからこそ、乗り越えられてきました。
富貴氏:私達二人は絶対に辞めないというのは強みですね。「最悪、二人でできるよね」と思えるのは大きかったです。
――お二人がお互いの絶対的な味方であることが、御社の強みになっているというのはよくわかります。ちなみに、本日はお二人のご自宅で取材させていただいておりますが、建材は管理物件で実際に使用されているものを使っていらっしゃるとか。生活と仕事が自然に融合されているご自宅は、お二人の生き方や働き方が象徴されていますね。
富貴氏:仕事とプライベートは分ける方が望ましいとされるかもしれませんが、私達は分ける必要がないという考えなんです。家に帰っても、子供の前でも、仕事の話はたくさんしますよ。
インタビュアー:WealthPark Founder & CEO 川田 隆太
有限会社ヤマモト地所
代表者名 山本 祐司
高知県四万十市中村一条通3-4-10
会社ホームページ: https://yamamotochisyo.co.jp/
<本件に関するお問い合わせ先>
有限会社ヤマモト地所
代表電話番号: 0880-34-2305
Mail: yamamotochisyo@future.ocn.ne.jp
WealthPark株式会社 広報担当
Mail: pr@wealth-park.com