2023.10.02
特別対談企画(前編)1つの取引が運命を変えた。サムティプロパティマネジメント植田社長の半生から学ぶ「管理会社代表のあるべき姿」
「不動産管理会社のいまを知る」をテーマに、業界をリードするゲストをお迎えし、貴重なお話をお伺いする連載企画。第23回は、関西エリアを中心に全国で不動産管理業を展開するサムティプロパティマネジメント株式会社 代表取締役社長 植田氏にお話を伺いました。前編では、植田氏のパーソナルストーリー、事業を起こすまでの背景、事業ヒストリーついてお話しいただきました。(前編/全2回)
ゲストプロフィール
サムティプロパティマネジメント株式会社 代表取締役社長 植田 剛志 氏
高校卒業後、不動産業を営む父親がオーナーを務める京都のホテルに就職。半年間の下働きを経て、支配人としてホテル運営を取り仕切る。本業務を通し人材マネジメントを覚える。バブル崩壊とともにホテル業が廃業となったため転職。複数社で働いた後、建築業に就職し、阪神淡路大震災復興時期に兵庫県の工務店に派遣され、現場業務を一通りマスターする。親戚からの相談に応え、不動産管理会社 関西コミュニティ部長に就職。一から管理業務を学び、3年後管理部門を独立させ株式会社カンコミの代表者に就任し、事業を拡大する。リーマンショックの影響で経営が傾くなか、事業を通し親交のあったサムティ株式会社に会社を売却し、新たにサムティ管理株式会社となる。同社の専務取締役として活躍した後、2022年にサムティプロパティマネジメント代表取締役社長に就任。趣味は料理。休日には従業員を自宅に招き、手料理を振る舞う。
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時代はバブル絶頂期。19歳でホテル業界へ飛び込む
ーー今回はよろしくお願いします。会社についてお伺いする前に、植田社長の学生時代について教えてください。
私が産まれた昭和42年(1967年)は第2次ベビーブームの影響もあり、子どもの多い時代でした。高校時代は男子校でかつマンモス校ということもあり、同級生だけで約1,000人もいたぐらいです。大学受験もかなり厳しい時代でしたが、私には勉強に対する競争精神が全くありませんでした。当然のように浪人しますが、勉強より遊びの方が楽しかったです。
またこの時代はバブルど真ん中で、不動産業を営む父は京都の久美浜のホテルを購入していました。ホテルの改装オープンに向けて準備を進める父に「勉強しないのなら、ここで働け!」と言われ、19歳から父のホテルで働きだします。
ーー社会人経験すらない状態で、いきなり働くのは大変だったのではありませんか?
アルバイト経験すらありませんでしたが、勉強をやらない分、人と何かをすることは得意だったのでそこまでの大変さはありませんでした。40代の従業員が多い職場でかつ下働きにもかかわらず、仕事をテキパキさばく様子が評価され、周囲の仕事も仕切るようになりました。秋口にはその仕事ぶりが認められ、ホテルの支配人を任されます。
ーー19歳で支配人になったのですか。驚きました。2倍以上も年の離れた従業員を取りまとめるのは大変そうですね。
大変というよりも、周囲に負けたらあかんと思っていたため、トラブルの方が多かったです。今みたいな優しさはなく、まだまだ荒削りで無茶苦茶でしたから。なんせ19 歳ですし(笑)。
ーー支配人の仕事から、植田社長はどのようなことを学びましたか?
人材のマネジメントです。実際はホテルというよりも料理旅館のような場所でしたが、料理長に女将、送迎バスの運転手、仲居などが所属し、一応の組織体制は整っていました。従業員によっては、社会人としての自覚が足りなかったり、異色の経歴を持っていたりと、まるでドラマに出てくる田舎旅館さながらでしたが、さまざまな人と働いたことで組織として成果を上げる方法を学びました。
ーーお父様と働かれることに大変さはありませんでしたか?2代目、3代目の経営者のなかには「お父様の顔色を見ながら仕事を進めた」「何をするにも意見を挟まれた」と苦労している方も多くて。
そんな苦労はほとんどなかったです。父は大阪、私は京都と物理的に距離がありましたから。お金を使う場面は父に相談し、それ以外は私が現場トップとして判断をしていたので、口を出される理由もありませんでした。
バブル崩壊でホテルは廃業、25歳で建築業界へ
ーーその後、植田社長はどのようなキャリアを歩みましたか?
25歳の時、バブル崩壊とともにホテルを廃業したため、私は転職活動を余儀なくされました。いわゆる、履歴書を企業へ送付する就職活動をこのときに初めて行いました。不動産賃貸の営業など、さまざまな経験の後に就いたのが建築業です。この会社の大阪支社で勤務していましたが、28歳の時に阪神・淡路大震災に襲われます。復興支援をきっかけに少しでも事業勢力を拡大したいとする会社の思惑もあり、ゼネコンOBが兵庫県で営む工務店に派遣されました。
ーーホテル業も広義の意味では不動産業だとは思いますが、そこから建築業へ移られたのですね。
はい。ただ建築の世界は営業よりも現場が花形のため、現場を知らないと、職人は相手にすらしてくれません。震災直後で職人も監督もまともに確保できない時でしたが、なんとか現場を覚えようと、社長にお願いし、さまざまな仕事を任せてもらいました。短い期間でしたが、最終的には1人で現場を動かせるようになり、同時に資格も取らせてもらいました。ここからが私の建築業の始まりです。
ーーそこからは建築業の道を歩まれるのでしょうか?
仕事は順調でしたが、親戚の弁護士から、ある中堅デベロッパーの管理会社の経営を引き受けてほしいと相談されました。最初は父とはあまり仕事をしたいと思わなかったため、断っていました。ただこの仕事は給料が良く、結婚と第一子の誕生を控えていた私は引き受けることにしました。これが私の管理業の始まりで、今の会社の土台となる関西コミュニティとの出会いです。
ーーホテル・建築と経て、初めて管理に携わるのですね。
そうなりますね。当時は約1,500戸の分譲マンションを管理する小さな管理会社でした。従業員をそのまま引き継ぎ、私と義理の兄の2人が代表となり、新しく会社を作りました。代表取締役として、主体的に事業を始めたのはこの会社からです。ある意味で、経営者としての始まりとも言えます。
ーー初めて管理業界に携わり、いかがでしたか?
管理も分譲も分からない状態で、24時間ずっとクレームを受け続ける日々が続きました。ただ、管理組合の理事会や総会で話を聞いていると、従業員に非のあるクレームばかりでした。これではいけないと思い、今後に向けて従業員と話し合いを設けたところ、その直後に複数の従業員が一度に辞めてしまって……親会社から出向していた前社長も管理畑ではなかったため実務面で頼るのは難しく、私は何にも分からない状態から管理業務を始めることになりました。
ーー経験者がいない状態だと、かなり大変だったのではありませんか?
管理業務に詳しい知人を引き抜いたり、募集で新しい人を採用したりと、なんとか人材は確保できました。管理組合の皆様も話をする前はどんな方かが分からなかったので不安でしたが、誠意をもって接すれば理解を示してくださり、安心しました。なぜならこの頃は、バブル崩壊後にマンションバブルも弾け、購入後に価値が半分以下になったり、デベロッパーが倒産したりとしていたことから、不動産業界に恨みしかないような方が大半でしたから。
管理組合との話し合いを進める一方、これまでの会社側の対応で至らなかった部分を改善するために会社のお金を使いました。管理会社は利益が少ないため、 5万や10万の金額でも会社負担にすることを嫌がります。売上や人件費に対し出費額が見合わないからです。ただこの時は従業員が減った分の人件費が浮いていたため、その分を使うことにしました。お陰で解約が発生することなく、会社を引き継げました。
その後の運命を大きく左右するサムティとの出会いは、偶然の一取引から始まる
ーー状況が状況だけに、ある意味で主体的に業務を動かさなくてはならなかったと思います。その後の事業は順調に進みましたか?
いや、もう現状維持ですよ。新規の顧客を取るゆとりなんて全くなく、最初は会社を守るだけで精一杯でした。この頃、管理業務が注目されてきたことをきっかけに「管理会社は儲かる」と思った大手企業が業界に参入してきました。大手を中心に値下げ合戦が始まり、中小規模の管理会社は淘汰され、管理費もどんどん下がっていきました。実際にお客様から「なぜ大手企業よりも価格が高いのか?」と言われたこともあり、いろいろな意味で一番辛い時代でした。
ーー価格競争に負けじと、管理をしていた時代だったのですね。一方この頃は、不動産仲介が全盛期でフランチャイズを大きく展開していた時期だとも思います。
私たちも分譲物件の管理がひと段落付いた段階で、賃貸仲介に乗り出しました。たまたま管理していたマンションの売り側の仲介役をオーナー様からお願いされたのですが、なんとその物件を、後に親会社となるサムティが購入したのです。偶然の取引とはいえ、これをきっかけにサムティとの縁ができ、一気に距離が近づきました。私が34歳の時の出来事です。
ーービジネスのお付き合い、つまり一取引先からどんどん関係性が発展したのですね。
はい、本当に最初はただの一取引、一物件を通しての関係でした。実はこの時、オーナー様からの了承を取った上で、「誰であろうと我々を管理から外すのなら売らへんよ」ぐらいの勢いで各社と交渉していたんです。ある日、いきなりサムティの担当者がやってきて「君か。何かえらそうに言っているのは」と声をかけられたのが最初の出会いでした。交渉の末、物件はサムティが購入し、管理も約束通り私たちに任せてもらうことができました。実はこのマンションには管理費などが未収金の入居者が多くいましたが、私たちの方で無事に全件徴収できました。この件をきっかけに、サムティからの信頼も勝ち取りました。
ーー当時、サムティはいろいろな会社に管理を任せていたのでしょうか?
いいえ、サムティは分譲物件の管理を大手上場企業に委託していました。当時のサムティは大阪では老舗の不動産会社に違いありませんでしたが、規模も今より小さく、デベロッパーとしてもまだ弱かったからです。しかし、賃貸物件なら別の管理会社に任せても問題ないのではないかという話が社内でまとまり、上場企業以外で初めて私たちが管理業務を委託されました。
互いの信頼関係があったからこそ実現できたサムティへの会社譲渡
ーー植田社長の行動が、結果的にサムティとの関係性を産んだのですね。
懐に入り込んだというやつですね。例えば、サムティとの関係性が出来始めた頃、当時サムティ本社が入っていたビルの7 階にオフィスを借りました。お金もない時期だったのをサムティの人たちも知っていたので、「家賃払えるのか?」とよく言われましたよ(笑)。実際に同じビルにオフィスを構えたことで、サムティとしては気軽に相談しやすくなったようで、最終的に賃貸案件はほぼ全て私たちに任せてくれるまでになりました。今、サムティ本社で部長クラスとして活躍しているメンバーは、当時一緒に仕事をしていた人たちです。
ーーグループに合流する前からすでに関係性があったことが伝わりました。事業の調子はどうでしたか?
私たちは収益を伸ばすため、この頃は賃貸収入が見込めるマンションの購入も行っていました。管理業だけでは人件費に対する利益が乏しいため、不労所得を得る必要があったからです。銀行から融資を受け、1棟1億円ぐらいする物件を借りました。元銀行員の父にアドバイスを受けながら融資の手続きを行いましたが、父は融資の引っ張り方が上手でした。私たちとしても事業を伸ばす時期だったこともあり、最終的には約40億円の融資を受けました。
ーーすごいですね! 時代的に融資が受けやすかったのでしょうか?
はい、受けやすかったです。しかしリーマンショックの影響で、一気にどうにもならない状態になりました。まさにこのタイミングで大阪の箕面に土地を購入し、自社マンションの建設を進めていましたが、途中で資金が足りなくなりました。融資をお願いしても、どの銀行も「そのマンションが完成し、収入を産むようになったら考えます」とお金を貸してくれません。資金が借りられないうちに景気はどんどん悪くなる一方で、さすがに私もしんどくなりました。
ーーどう乗り越えたのですか?
最終的にサムティに会社を譲渡することで、この危機を乗り越えました。当時約20名の従業員を抱えていましたが、リストラという選択肢はありませんでした。極端な話、分譲マンションの管理なら私1人でも行えますし、最悪20棟あれば自分だけなら養えます。だた、それでは面白くないし、このまま人生が終わるのは嫌だなと。何より同じ釜の飯を食べてきた従業員に会社を辞めてくださいと言う度胸はないし、そんなことをやりたくもありません。
自らの仕事ぶりで待遇を改善、背景には真摯に向き合うサムティのカルチャー
ーーサムティに会社を譲渡すると決めた大きなポイントは何でしょう。
サムティが従業員を守る会社であり、従業員自身も働き続けたいと思える会社だったからです。自主都合の退職はありましたが、従業員の多くは定年まで働きました。従業員が安心して働けない会社に事業を譲渡するのは、私自身としても怖いですよね。従業員を守るために譲渡を決断したのに、その後すぐに全員がリストラされるようなことがあれば、何のために会社を手放したのかが分からなくなります。
ーー経営者として激動の人生を過ごす一方で、最後は人と人とのつながりを大事にした上で決断されたことを目の当たりにしました。親会社のサムティも自社で管理部門があったと伺いました。どのようにして、サムティの管理部門と皆様は融合していきましたか?
当時、関西の中堅以上のデベロッパーで管理会社を持ってない会社はサムティだけでした。我々はそのポジションを願わせてもらいました。最初は本社の管理部門とは別々に働いていましたが、ある時、会社の意向で我々はサムティ管理株式会社(以下、サムティ管理)として融合しました。同じビルの同じフロアで働くようにはなりましたが、チームは融合させず、我々は一般オーナーの物件を、本社メンバーは自社物件を管理しました。
ーー親会社・子会社の関係だと、いくら同じグループとはいえ、働き方や待遇面などの違いから、いろいろとご苦労があったのではありませんか?
当然、本社従業員と我々とでは給料形態に違いがありました。同じフロアで同じ業務を行っているのに、残業代の支給条件が違うことには皆が大きな不満を感じていました。一般オーナーにドブ板営業をし続け、さらに本社メンバーが対応しきれない案件を代わりに難なくこなす従業員の仕事を正当に評価してほしいと思い、私は本社に給与条件の改善をお願いしました。
サムティの良いところは、子会社だからと言って話を聞かないのではなく、真剣に改善に向けて取り組んでくれる点です。結果、それまでは給与に含まれていた残業代が、働いた分だけ支払われるようになりました。「売り上げが出てきたら、ボーナスの検討もお願いします」と伝えると、今度は年1回のボーナスが支給されるようになり、今では夏と冬の年2回ボーナスが支給されます。私たちは、成果を残していくことで、残業代にボーナスと、1つずつ待遇の改善を勝ち取っていきました。
ーーここまでの話を整理すると、サムティは管理事業を拡大し、従業員の皆様は待遇が1つずつ改善され、植田社長は雇用を守りつつ、従業員の待遇改善にも成功しました。代表としての責務は十分果たしたと思うのですが、ご自身の次の挑戦を考えようとは思いませんでしたか?
もう一度事業を起こそうかなという気持ちは、やはりありました。その一方で、サムティ管理の事業規模がどんどん膨らみ、さらに東京へ支店を出す計画も進んでいたことから、思いのほか、自分の今後を考える時間がありませんでした。事業規模が衰退していたら起業を考えたかもしれませんが、ある意味で環境が良かったのだと思います。
それこそ一人親方で仕事をする楽しみもありますが、やはり資本があると大きな事業に取り組むことができるため、仕事内容そのものが違ってきます。そういう意味では形が決まっており、ある程度大きなビジョンで働ける今の環境が私には合っていたのかもしれません。
インタビュアー:WealthPark Founder & CEO 川田 隆太
サムティプロパティマネジメント株式会社
代表取締役社長 植田剛志
大阪府大阪市淀川区西宮原1丁目8番39号 S-BUILDING新大阪6F
会社ホームページ: https://www.samty-pm.co.jp/
<本件に関するお問い合わせ先>
サムティプロパティマネジメント株式会社
Contact: https://www.samty-pm.co.jp/contact/
WealthPark株式会社 広報担当
Mail: pr@wealth-park.com