Articles

2025.08.01

【特別対談企画 VOL. 29】信頼は、向き合い続けた先に。変化を越えて、横浜で積み重ねる不動産経営の本質

「不動産管理会社のいまを知る」をテーマに、業界をリードするゲストを迎える連載企画。第29回は、株式会社フロンティアハウス 代表取締役社長CEO・佐藤勝彦氏にお話を伺いました。平成元年、バブル経済の只中で不動産業界に飛び込み、急成長を遂げるデベロッパーの現場でキャリアをスタートさせた佐藤氏。やがて訪れた和議申請、顧客との向き合い、そして独立と、数々の転機を乗り越えてきました。アパート開発という新たな価値創出や上場による企業成長を経て、現在も“社会性ある企業であり続ける”という信念を貫いています。本記事では、「やり切る」覚悟の原点となった高校野球の挫折から、次世代にバトンを渡す展望まで、その歩みを辿ります。

ゲストプロフィール

株式会社フロンティアハウス 代表取締役社長CEO 佐藤勝彦氏
1966年生まれ。千葉県出身。1989年に株式会社朋友建設へ入社。民事再生を経験し、同社の再建に尽力した。1999年に株式会社フロンティアハウスを設立。「お客様も社員も親子3世代にわたってファンで居続けてもらえる“100年企業”」をビジョンに、「不動産投資をより身近に、より多くの方に」をミッションに掲げ、土地の仕入れから建築、販売、賃貸募集、賃貸管理までのワンストップサービスを展開する。2018年に中央大学大学院 戦略経営研究科修了・MBA取得。2022年には東京証券取引所TOKYO PRO Marketに株式上場。

TOC

“思い出の街”横浜で始まった、不動産キャリアの原点

――まずは、佐藤社長の現職に至るまでについてお聞かせください。

私が不動産業界に入ったのは今から約36年前、平成元年のことです。いわゆるバブル経済の真っ只中で、日経平均株価も当時としてはピークを迎えていた時代でした。その頃は金融や不動産が“花形”とされ、私の父は商社の不動産部門に、姉は証券会社に勤めていました。そんな家庭環境もあり、自然とその業界を志すようになったんです。

また、私は千葉出身なのですが、学生時代に横浜によく遊びに来ていましてね。アルバイトで買った愛車に乗って、赤レンガ倉庫や大黒埠頭にドライブに行くのが楽しみでした。そういう思い出もあって、就職するなら「横浜がいいな」と自然に思っていたんです。

――なんだか情景が目に浮かびますね。ちなみに、どんなお車に乗られていたのですか。

中古で購入した日産シルビアで、標準色ではなく、シルバーにピンクを入れたオリジナル仕様です。塗装会社にいる友人に頼んだんですが、光の加減でピンクやゴールドに見えるんですよ。当時は、静岡県にあるレーシングコース・富士スピードウェイを走らせてもらったり、雑誌にも2回ほど掲載されたりしました。若かったですね(笑)。

――そのような思い出のある街で、実際にキャリアをスタートされたのですね。

はい。当時在籍したデベロッパーは、6期目で売上630億円を目指すという成長著しい会社でした。

ただ、平成2年の終わりに、不動産融資の抑制を目的とした「総量規制」が発表され、業界全体の流れが変わり始めます。私は横浜本社に配属されましたが、入社から約2年半後に、会社は「和議」、つまり今でいう民事再生を申請することになりました。当時25歳だった私にとって、華やかだった時代の終わりと、業界の転換点を実感させられる出来事でした。

高校野球での悔しさが教えてくれた「やり切ることの意味」

――入社してからの新社会人生活はどの様なものだったのでしょうか。

私が社会に出た当時、電話営業や飛び込み営業は当たり前。新入社員研修も非常に厳しく、上司の命令には絶対に従うという空気がありました。「はい」と言えなければ通用しないような、縦社会そのものです。
ただ、私にとってその厳しさに耐えられた原点には、高校時代の経験があったと思っています。

小学校から硬式野球を続けていて、当初は地元の甲子園常連校に進学する予定でした。ところが中学3年の春、千葉の別の高校が甲子園で準優勝し、注目を集めました。荒れていた学校を野球で変えようとしていたその姿勢に惹かれ、私は予定を変えてその高校に進学することにしました。

進学後は、毎日自転車で1時間以上かけて通学していました。ただ、1年目の夏、大会で早々に敗退。監督が不在だったタイミングで、同期10人ほどと一緒に退部を申し出たんです。もちろん自分の意思でしたが、「なぜこの学校を選んだのか」「なぜ辞めてしまったのか」と悩み続ける2年半になりました。

地元では越境進学する人も少なく、戻っても周囲に話せず、居場所がないような感覚でした。自分の選択を肯定できず、後悔とともに時間が過ぎていきました。

――そうした悔しさは、時間が経っても心に残るものなのですね。

社会人になってからも、その思いは尾を引きました。特に夏の甲子園の入場行進は、テレビ越しにも正面から見ることができないほど、胸が苦しくなる。30歳を過ぎてもなお、当時の悔しさは消えませんでした。

その気持ちは、私の社会人としての姿勢にも大きな影響を与えました。仕事で何度も「もう辞めたい」と思う瞬間はありましたが、「また途中で投げ出すのか」と、高校時代の自分が問いかけてくるような感覚があったんです。

辞め癖がついてしまうのではないかという不安や、「今度こそやり切らなければ」という気持ちが、どんなに厳しい環境でも踏ん張る支えになっていました。今の会社の考え方や文化のベースには、あの高校時代の経験が強く影響していると、今でも思っています。

和議申請の中で顧客に向き合い続けた日々

――先ほど触れられた和議申請を経て、社内にも大きな変化があったのでしょうね。当時、現場ではどのような空気が流れていたのでしょうか。

総量規制によって不動産業界全体が大きく揺らぎ始め、私が在籍していたデベロッパーも例外ではありませんでした。入社から2年半後の平成3年、和議申請の手続きに入ることになります。

「和議」という言葉がまだ一般的ではなかったこともあり、社員の間にも大きな動揺が広がりました。会社としても急激な業績悪化の中で、数百億円単位の債務を抱えることになり、9期目で売上1030億円を目指していた成長企業が、突然崩れていく様子を目の当たりにしました。

年明けには、社員の約半数が離職。私の周囲でも、営業チームごとに他社へ移る動きがあり、「佐藤も来るよね」と声をかけられることもありました。確かに、そうした流れに乗る選択肢もあったのかもしれません。ただ、私はそのとき、「今は自分の意思で動いてもいいのではないか」と考えるようになっていました。

というのも、当時私が担当していたお客様の多くは、前金保証の制度利用の手続きが未完了のまま、複数物件を同時にご契約いただいている状態でした。通常であれば、一定の手付金を納めていれば保証制度が適用されるのですが、物件が複数にわたる場合、保証が効かないケースも出てきます。

自分だけ次の会社へ行くのは簡単ですが、それではお客様に対して責任を果たせない。ご家族ぐるみでお付き合いしているお客様や、同じマンションに住んでいた先輩社員もいましたし、「このままでは終われない」という気持ちが日に日に強くなっていきました。

――その選択を“若さゆえの正義感”で済ませられない重みがありますね。

結果的に、私は会社に残ることを選びました。「自分が売った物件のお客様に、最後まで向き合いたい」と思ったんです。25歳の営業にとっては大きすぎる決断だったかもしれませんが、今思えば、高校時代に途中で野球を辞めてしまった自分への“償い”のような気持ちもあったのかもしれません。

一度投げ出したことがあるからこそ、今回は最後まで責任を果たそう。そんな想いが、自分を踏みとどまらせてくれたのだと思います。

続けた先に見えた節目、家族の声と独立の決断

――激動の時期を経て、会社をご自身で立ち上げるに至った経緯をお聞かせください。

和議を経て会社に残るという決断をしてから、私はそのまま7年半ほど在籍し続けました。平成10年には、メガバンクへの一般債権を完済。お客さまを最後まで見届けることができたという充足感とともに、「健常期から和議までの10年間をやり切った」という想いが、自分の中で次のステージへ向かう覚悟となりました。そして、平成11年3月末に退職し、翌4月、フロンティアハウスを設立しました。

――ご自身で事業を始めるにあたっても、やはり横浜を選ばれたのですね。

やはり横浜には縁がありました。学生時代の思い出の場所でもあり、以前勤務していた本社も横浜。自宅も横浜にあったので、「生活の場」と「仕事の場」を一致させたいという想いも強くなっていました。

ただ、起業といっても戦略的に準備していたわけではなく、かなり手探りのスタートでした。社名も最初は「フロンティア」で申請したのですが、既に使われていたため「フロンティアハウス」に。事務所も妻が見つけてきた家賃5万円の物件で、開かずの踏切のすぐそば。電話を転送していると、カンカンカンカン鳴りっぱなしなんです(笑)。

事務所の周辺には、お好み焼き屋さんや商店街があって、今でも年末には当時の店に挨拶に行ったりします。横浜での“原点”という感じですね。

向き合い続けた先に育った、“物件の嗅覚”

――創業後、仲介からスタートされたと伺いましたが、その後はどのように事業を展開されていったのでしょうか。

実際のところ、創業当初は資金もなく、借り入れもできなかったので、「できることをやるしかない」というのが正直な気持ちでした。そこで、まずは仲介に出ていた収益物件の客付けからスタートしました。

自分で開発した物件を売るというより、すでに出回っている物件に対して、お客様をマッチングさせる業務ですね。購入いただいたオーナー様が管理会社を自由に選べる立場にあるので、「フロンティアハウスに管理も任せたい」と言っていただけるケースも徐々に増えていきました。

この“仲介から管理へ”という流れを築けたのは、やはり前職でずっと営業をしていたことが大きかったと思います。直接お客様と向き合ってきた経験が、ストック型のビジネスへの感度につながっていたのかなと。

そんな中、ある転機が訪れます。駅から徒歩2〜3分という好立地の土地を仲介で預かっていたのですが、敷地が狭く住宅プランがうまく入らず、半年ほど売れずにいました。ところが、ある社員が「ここにアパートのプランを入れてみてはどうか」と提案したんです。

実際にプランを描いて再度募集をかけてみたところ、すぐに買い手がつきました。これには驚きましたね。

――まさに「視点を変えた」ことで突破口が開けた瞬間ですね。

日当たりも悪く、駐車場も取れない。住宅としては条件が良くない土地でも、アパートであれば十分に価値がある。駅近という利便性があれば、借り手もつきやすい。こうした “用途転換”の発想は、それまで自分にまったくなかったんです。そこから、少しずつアパート開発という分野にも踏み出していくようになりました。

ただ、私は昔から形から入るタイプで、まずはアパートという事業を一から勉強しました。どんなお客様にどんな物件が合うのか、どの立地なら収益性が出せるのか。結局は「お客様のニーズを深く理解する」という視点を持てるかどうかなんですよね。

お客様とずっと向き合ってきたからこそ、「この人にはこれが合う」「この場所ならこの層がつく」という嗅覚のようなものが自然と育っていったのかもしれません。

上場の重み、次なる挑戦 ― 社会性ある企業であり続けるために

――上場を経て、御社の立ち位置や社内の意識に変化はありましたか。

上場準備の過程では、経営企画や広報、管理部門を中心に、さまざまな体制整備が必要でした。私は方向性を示しただけで、実務を動かしてくれたのは現場の社員たちです。彼らがひとつずつ課題を乗り越えてくれたことで、今の会社があります。

東証のマークがついた名刺を従業員が手にし、SNSやウェブサイトでの情報発信も加速して、社外の方からの認知も格段に上がりました。「あ、上場企業なんですね」と言っていただけることが増えて、従業員が誇りを持って働けるようになったのを感じます。

特にうれしいのは、若い従業員が自分の住宅ローンを組むときに「会社が上場していてよかった」と言ってくれること。そういう場面に立ち会えると、やってきた意味があったなと思いますね。

――その先で見据えている展望についても、ぜひお聞かせください。

国内市場だけを見ていては、人口減少の波を避けられません。横浜という地はまだ可能性がありますが、それでも二極化・三極化は進んでいます。そうした中で、今後は海外への展開も視野に入れています。

具体的には、人口が伸びているアジア圏、フィリピンやインドネシアなど、住宅ニーズがこれから本格化していく国々に可能性を感じています。私たちが培ってきた「賃貸併用住宅」というストック型の商材は、そういった国々でも通用すると考えています。

もちろん簡単な話ではありませんが、5年、10年というスパンで、少しずつ布石を打っていきたい。私自身は、あと一歩踏み出すことで、次の世代にしっかりバトンを渡したいと思っています。

――日々のお忙しさのなかで、お仕事以外の時間でどのように息抜きされているのでしょうか。

これまで楽しんでいたゴルフからは少し距離を置いて、休日の時間の使い方を改めて考えるようになりました。

今は、愛犬と散歩したり、40年ぶりにバイクに乗ろうと大型免許の教習所にも申し込んだりしています。まだ一度も行けていないんですけどね。ここでも「形から入るタイプ」で、ヘルメットだけは買ってあります。大型のバイクで愛犬をサイドカーに乗せて海沿いを走る、そんな休日も悪くないなと。仕事だけでなく、日常の過ごし方にも少しずつ“再スタート”を切っていけたらと思っています。

――それは楽しみですね。最後に、これから会社としてどんな存在でありたいとお考えですか。

社会性のある企業であり続けたい。それが、ずっと変わらない私の想いです。

従業員がこの会社で働いていて誇りを感じられること。お客様やオーナー様に「フロンティアハウスに任せてよかった」と思っていただけること。そして、地域や社会から必要とされること。それを大切に積み上げていくことが、私にとっての経営です。

――顧客と誠実に向き合いながら、変化の波を乗り越え、社会性ある企業としての道を着実に歩まれてきた姿から、不動産経営の本質と、次世代への責任を静かに見つめるリーダーシップが感じられました。本日は貴重なお話をありがとうございました。

ありがとうございました。

インタビュアー:WealthPark Founder & CEO 川田 隆太

佐藤社長のおすすめ

インタビューの締めくくりに、佐藤社長から横浜・東京の”おすすめのお店や逸品”を教えていただきました。多忙を極める佐藤社長の日々の活力やリラックスの源になっている、とっておきの4選をご紹介します。




株式会社 フロンティアハウス

代表取締役社⻑CEO 佐藤 勝彦氏
〒220-0012 神奈川県横浜市西区みなとみらい3-7-1 オーシャンゲートみなとみらい8F
会社ウェブサイト: https://www.frontier-house.co.jp/

<本件に関するお問い合わせ先>

株式会社 フロンティアハウス
Contact: お問い合わせ窓口
WealthPark株式会社 広報担当
Mail: pr@wealth-park.com

RELATED ARTICLES

  • Articles

    2025.06.27

    【特別対談企画 VOL. 28】「やり切る力」と「しなやかさ」で組織は進化する──井村社長が語るADIのこれから

  • Articles

    2025.05.23

    【特別対談企画 VOL. 27】組織の地力で未来をつくる──不動産と教育の交差点で描く成長戦略

  • Articles

    2025.05.02

    【特別対談企画 VOL. 26】常識を疑い、誠実を貫く──アセットデザインカンパニー 亀田社長が語る“現場起点”の経営哲学

  • Articles

    2025.04.11

    【特別対談企画 VOL. 25】「家業」から「企業」へ──福島の地とともに成長する次世代経営者・追分社長の軌跡

  • Articles

    2025.03.21

    【特別対談企画 VOL. 24】商売の本質を貫き、時代を先読みする——三和エステート田代副社長の挑戦

  • Articles

    2023.10.02

    【特別対談企画 VOL.23】サムティプロパティ管理植田社長の半生から学ぶ「管理会社代表のあるべき姿」(前編)